仲屋風水デザイン
まだまだ寒い夜が続きますね。 今回の風水ブログは「ちょっと話が長い」シリーズになってしまいます。どうぞご容赦のほどを。 さて、最近は体調と心が整ってくると共におかげさまで少しずつ忙しくなり、仕事を始めた当初の「好きなことだけしてどこまで生きていけるのか」というチャレンジもそろそろ終わりかなぁと、いう気がしています。 あ、もちろんこのお仕事を辞めるということではありません。もし、ご心配してくれたのなら感謝です。 さて、心が整ってきたなどと書きましたが、ここでいう「心が整う」とは「清く正しく美しく」というたぐいのものではありません。それを別の言葉にすれば「日常のストレスが取れてくると同時に体力も戻ってきた。ストレスの影響が体調に及ぼしているのが感覚として分かった」とでもいえば良いでしょうか。これも体調の低空飛行を続けてきたがゆえに気づけた賜物です。 そう、感覚といえば何といいますか、別の感覚のお話です。最近は時間の持つエネルギーによる助けが無い時も、感覚で少しばかりそれが分かるようになってきています。 「時間エネルギーの助けって・・・?」ブログをお読みいただいている方の中には、はてなマークがピコピコとあらわれていらっしゃる人もいるでしょうから、少々そのお話をいたします。 卍易の世界ではこれを「日月の助け」といいますが、これが感覚で分かるようになるとは、どのようなものであるのか。それは、いずれ自分の寿命が尽きるタイミングがやって来た時に、はっきりと分かるような、ヒシヒシ感じるたぐいのものです。 しかしこれが特別な感覚かと言えばそんなことはけっしてなく、人間が本来持っている感覚だと思っています。 また、そんな感覚はあるよりもないに越したほうが良いという考えもありません。なぜならそれには大きな理由があるからです。 一周回ってまたつい最近、とはいっても数年前のお話になりますが、実家に帰省したおりに久しぶりにテレビを見る機会がありました(今もテレビはめったに見ずに過しています)。
ちょうどその時アンパンマンの原作者であるやなせたかしさんが「あと半年ぐらいだろうなぁ」と、ご自身の寿命の終わりをおっしゃっていました。それからご自身で予言したとおり、氏は半年後くらいにお亡くなりになりました。この予言といいますか予測をテレビで見ていた時、確かインタビューアーは「いやいやそんなこと」と、それは否定した方が良い話題だと思ったのでしょう、氏の話を受け流していました。ところが「ホントなんだよ。もっと生きたかったなぁ」と、ご本人は難しいだろうけれどもできれば理解して欲しいような感じでした。きっと色々はっきりと分かっていらしたのでしょう。 いつも話が長くなってしまいますが、日月の助けとは、おそらくこれと同じ感覚なのだろうと思っています。 また、このように「何となく分かってくる」のはもちろん誰にでもあるものではないと思っています。ただ、だからといって氏に限ったことでもなく、私が知らないだけで結構あることではないだろうかとも考えています。 何といいますか、その感覚はいつの間にか枯れていたことに気がついたとでも言えば良いでしょうか。 これができた頃には自問していました。この感覚はなんだろう。日常で思い煩うことがどんどん少なくなってきたことで感じられるようになってきたのだろうか。それともこれまで受けた色んな不思議なワーク、スピリチュアル的な伝授とか、タイの寺院で習った瞑想であるとかの効果が今頃になって出てきたのだろうか。自分の心を見つめるマインドダイブを続けたせいなのかな。どれも真実に近いような気がします。 実際の本当の理由、その辺りの真偽はどうだか分かりませんが、今ではそんなことで悩むよりはまぁとにかく何やかやの理由があるのだろうなぁとぼんやりと考えています。どちらにせよ以前よりも易に縁がついてきているのでしょうから。 時の流れが人に及ぼす助けについて。クエスチョンマークをつけながらもタオイスト的生活と公言する立場から説明しますと、これは人に限らず生きとし生けるものはいつもそれを受けとっています。目に見えない恩恵といえば分かりやすくて良かったですね。ただ、目に見えない恩恵といってもこれは時間と関係してるものです。とはいえ時間エネルギーの助けなどという言葉にすれば、確かに随分と怪しげ。卍易らしくここは日月の助けとしましょう。これはお仕事の専門用語です。 生き物に対する月日の影響やそのつながりについては、いつか誰かが解明してくれれば良いなぁと淡い期待を抱きつつ、その感覚についてのお話を続けます。 それをきちんと受け取れていない場合には、うっすらと何かが違うような、気の抜けたような、抜け殻のような感じ、違和感があります。それは何かつながりが切れてしまったような感覚でもあります。そのような時には、易々とネガティブなものに巻き込まれてしまいそうな感じもあります。 恐ろしいかというと全部がそういうことでもなく弱くて薄れたようでもあり、おばけとか幽霊とかそういうたぐいのものでもありません。体の軸がぶれているようなものでもないです(体の軸はしょっちゅうぶれています、多分)。 いつもと違いますので「何だかこれはちょっとマズイなぁ」と少しだけ焦ります。 で、そんな感覚があった時に、一度自分で卦を立ててみたことがあります。すると案の定、日月の助けがない(これは卍易の専門的な話です)。それで、その感覚の正体がつかめた次第です。どうもこれは時間エネルギーの助けがない感覚なのだと。 そこからやなせ氏のインタビューを思い出し、同じような寿命が尽きることを言葉に残していた昔の武士や易者の話を思い出し、あぁこれがそうなのかと腹落ちした次第です。 世の中に絶対というものはほとんどありませんが、人はいずれあの世に行く、これは数少ない絶対のひとつです。 また、ラテン語で言う所のメメントモリ、自らの死を忘れるなかれという言葉もあります。 ただ、これは死ぬことを怖れなさいという意味ではけっしてありません。 いわば、自分の命が薄まって、やがては尽きることがくるのだろうなと感覚で分かってしまうと、生きていることの毎日が贅沢なような気がしてきます。 できるだけ生きていることを丁寧に、できるだけストレスから遠ざかって、毎日楽しく生きようと考えるようになります。時にはストレスのあるちょっとした事件も、一歩離れて我が人生における刺激のひとつと、心がすぐに感情に巻き込まれない方向へと動くようになります。 今回「好きなことだけしてどこまで生きていけるのか」というチャレンジもそろそろ終わりかなぁと感じたのは、そういったことからなのだと、つれづれ文を書き連ねているうちに気づきました。しかし読み返せば、やはりこれも話が長いシリーズです。ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。 人にはその人生で頑張って生きる時期を過ぎる時があります。それから、それに気づくタイミングもあります。 私の場合、そのタイミングが来たのだと気がついたのには理由が3つあります。 ひとつはがむしゃらにエネルギーを使えなくなったこと、ふたつ目はそれほど頑張らなくても上手くいくのだと気がついたこと。 それから最後のひとつ。それは、この限りのある生を実感してしまった上では、できるだけ喜びが多い毎日が良いと本気で思えるようになったこと。 つまり、生きながらえることを何よりも一番大切にしようと考えるようになったことからです。 あ。これもまた老子の一説に書かれていることでした(今気づく)。 それではまた、ごきげんよう! |
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