運命論と占い
ここでいう運命論というのは決定論ともいわれるものです。中学校までにやる物理とか数学とか科学とかの根っこにある考えです。ニュートンが外で昼寝していたらリンゴが落ちてきて重力みつけたっていうあれです。
運命は決まっている?
決定論を簡単に説明してしまえば、この世界の理(ことわり)はみんな決まっているということです。そこから発展して、決まっているのだから、あとはその法則を全部みつけて公式にすることができれば人の運命まで克服できるはず。このようにして西洋に始まったのが今の学問体系です。大ざっぱですが、運命論(決定論)と現在の学問体系は切っても切り離せない関係にあります。
占い(ここでは西洋占星術)は、象徴から未来を読み取るという再現性のなさから学問の枠に入れてもらえませんでした。ですが占いも運命論の前提がなければ決まった未来を読み取ることができなくなります。ですので、考えの根っこは同じです。そもそも、科学の体系ができあがる以前は、科学そのものも魔術のひとつとして、占いやまじないと区別がなかったのです。錬金術がそうです。
今では占いは迷信やオカルトということで、省みられることなく学問の境界線からはじかれてしまいました。
その復興には時間がかかることでしょうが、いずれまた学問の仲間入りすることでしょう。そう淡く期待しています。
ちなみにドイツでは、魔女のことを「塀の上を歩く者」と呼んでいます。それは、まじないをする者は常にあの世とこの世の境界線の上にいたからです。
占い(ここでは西洋占星術)は、象徴から未来を読み取るという再現性のなさから学問の枠に入れてもらえませんでした。ですが占いも運命論の前提がなければ決まった未来を読み取ることができなくなります。ですので、考えの根っこは同じです。そもそも、科学の体系ができあがる以前は、科学そのものも魔術のひとつとして、占いやまじないと区別がなかったのです。錬金術がそうです。
今では占いは迷信やオカルトということで、省みられることなく学問の境界線からはじかれてしまいました。
その復興には時間がかかることでしょうが、いずれまた学問の仲間入りすることでしょう。そう淡く期待しています。
ちなみにドイツでは、魔女のことを「塀の上を歩く者」と呼んでいます。それは、まじないをする者は常にあの世とこの世の境界線の上にいたからです。
学問が学問でなくなる時、人は昔を振りかえる
さて、話を運命論に戻します。
我々は、運命論が前提にある数学や物理を中学生の間に学びます。そして、高校生ぐらいになると量子学を学び始めます。ところが困ったことに、この量子学、運命論では片づけられないことなのです。量子論はこれまでの法則が通用しない、決まった通りに答えが出ないことが多い不思議な学問です。あれ、おかしい、実験やってもこれまでの法則通りにいかないぞ、これはどういうことだ?ということから、どうもこれは運命論ではおさまりがつかないとなり、そういった学問は非運命論とよばれるようになります。
電子の二重スリットを通す実験などがその代表例です。
この実験では、電子をふたつの細いすき間を通して飛ばすと、電子は粒なので均一に広がるはずだという予想を覆し、スクリーンに濃淡ができてしまったというものです。簡単にいうと、電子の存在は粒であると同時に波の性質をもっているという矛盾が生じたものです。波であると同時に粒であるというのは、電子の正体が決まっていない、決定論からずれた結果というわけです。
このように、ものすごく小さい世界をあつかった学問は、観測者によって実験の結果が変わるという、再現性の証明が非常に難しいものになっています。
我々は、運命論が前提にある数学や物理を中学生の間に学びます。そして、高校生ぐらいになると量子学を学び始めます。ところが困ったことに、この量子学、運命論では片づけられないことなのです。量子論はこれまでの法則が通用しない、決まった通りに答えが出ないことが多い不思議な学問です。あれ、おかしい、実験やってもこれまでの法則通りにいかないぞ、これはどういうことだ?ということから、どうもこれは運命論ではおさまりがつかないとなり、そういった学問は非運命論とよばれるようになります。
電子の二重スリットを通す実験などがその代表例です。
この実験では、電子をふたつの細いすき間を通して飛ばすと、電子は粒なので均一に広がるはずだという予想を覆し、スクリーンに濃淡ができてしまったというものです。簡単にいうと、電子の存在は粒であると同時に波の性質をもっているという矛盾が生じたものです。波であると同時に粒であるというのは、電子の正体が決まっていない、決定論からずれた結果というわけです。
このように、ものすごく小さい世界をあつかった学問は、観測者によって実験の結果が変わるという、再現性の証明が非常に難しいものになっています。
占いやまじないを今の学問と比べるだけで激怒する人もあらわれるかもしれません。しかし、実は占いの世界も量子学のような境界線での不思議なできごとがおきます。長いスパンで見れば、学問の発展してゆく順番と同じです。陰陽五行などもじっくりやると運命論だけでは片づかないことが見えてきます。
占いはそもそもが運命論の立場だったのに、今の学問と同じでそこから非運命論っぽいものが見えてきます。
昔のことをまじめにやると、学問の発展の仕方も占いの発展の仕方も実に似ていることが分かってくるようになります。
昔は今とは違って真剣に占いと向き合っていた人が相当大勢いて、国ぐるみで勉強していたわけですから、優秀な人間の頭がたくさん集まって考えると、結局似たり寄ったりの流れになるのは当然といえば当然なのかもしれません。
占いはそもそもが運命論の立場だったのに、今の学問と同じでそこから非運命論っぽいものが見えてきます。
昔のことをまじめにやると、学問の発展の仕方も占いの発展の仕方も実に似ていることが分かってくるようになります。
昔は今とは違って真剣に占いと向き合っていた人が相当大勢いて、国ぐるみで勉強していたわけですから、優秀な人間の頭がたくさん集まって考えると、結局似たり寄ったりの流れになるのは当然といえば当然なのかもしれません。
運命論から非運命論へ
ここからは少し専門用語が入ってしまいます。
陰陽というのはわかり易く言えば、ものごとを二種類に分けて考えるものの見かたなんですが、私の場合には、それじゃぁ三位一体のものをどうやって陰陽で分けるんだと疑問に思って取り組んだ時に、初めて運命論から抜け出すきっかけを得ることができました。
ちなみに私が運命論から抜け出せたのは、時間についての三位を陰陽で考えた時でした。
時間は過去、現在、未来の三位にわけますので、三位一体です。
そのあたりのこと、私自身にパラダイムシフトがおきた時のことを少しお話したいと思います。
私の本業は占い師ですから、陰陽五行と易を学問としてではなく、実践的に使えるものとして勉強していました。風水などで効果が見られないと評判も呼びませんし、そうなるとたちまち食べることにも困ってしまいます。
まぁ、それは置いておくとして、とにかく私は大まじめに大昔の専門ツールやノウハウを使って現代生活を送っています。
つまり、普通一般の方とは違った、ある種の偏った基準から考える頭ができあがってしまっています。
ある種の偏った基準で考えているといえば、心理学者や医者もそうですね。料理人もそうです。美容師もそう。考えてみれば専門家はみんなそうですね。自分の専門の世界にたとえて生活しています。
もう少し、誤解をおこさないように言い換えれば、私は陰陽五行を使う占い師、まじない師としてのモノの見方で生きています。
それで、運命について何年も何年も、疑問に思いつつ考えつつするうちに、最近ようやく運命は決まっていながら変えることもできるという、矛盾のような矛盾を乗り越えたような結果に至るようになってきました。
これは哲学なんかでいうヘーゲルとかマルクスの弁証法なんかとも通じていて面白く、占いのツールである陰陽と唯物論のマルクスが、弁証法というモノの見方で考えれば同じだったりするわけです。そう考えれば今の中国は弁証法がもとにある共産主義思想にとてもなじみやすいことも納得します。ちなみに毛沢東のおじいさんは風水師だったとか。
陰陽というのはわかり易く言えば、ものごとを二種類に分けて考えるものの見かたなんですが、私の場合には、それじゃぁ三位一体のものをどうやって陰陽で分けるんだと疑問に思って取り組んだ時に、初めて運命論から抜け出すきっかけを得ることができました。
ちなみに私が運命論から抜け出せたのは、時間についての三位を陰陽で考えた時でした。
時間は過去、現在、未来の三位にわけますので、三位一体です。
そのあたりのこと、私自身にパラダイムシフトがおきた時のことを少しお話したいと思います。
私の本業は占い師ですから、陰陽五行と易を学問としてではなく、実践的に使えるものとして勉強していました。風水などで効果が見られないと評判も呼びませんし、そうなるとたちまち食べることにも困ってしまいます。
まぁ、それは置いておくとして、とにかく私は大まじめに大昔の専門ツールやノウハウを使って現代生活を送っています。
つまり、普通一般の方とは違った、ある種の偏った基準から考える頭ができあがってしまっています。
ある種の偏った基準で考えているといえば、心理学者や医者もそうですね。料理人もそうです。美容師もそう。考えてみれば専門家はみんなそうですね。自分の専門の世界にたとえて生活しています。
もう少し、誤解をおこさないように言い換えれば、私は陰陽五行を使う占い師、まじない師としてのモノの見方で生きています。
それで、運命について何年も何年も、疑問に思いつつ考えつつするうちに、最近ようやく運命は決まっていながら変えることもできるという、矛盾のような矛盾を乗り越えたような結果に至るようになってきました。
これは哲学なんかでいうヘーゲルとかマルクスの弁証法なんかとも通じていて面白く、占いのツールである陰陽と唯物論のマルクスが、弁証法というモノの見方で考えれば同じだったりするわけです。そう考えれば今の中国は弁証法がもとにある共産主義思想にとてもなじみやすいことも納得します。ちなみに毛沢東のおじいさんは風水師だったとか。
そういった陰陽と弁証法の関係などにも気づかされると、あぁ昔の人はとても偉かったのだなぁと、ため息が出るくらい感心したりします。
人は決まった運命から逃れられるのか?その答えを日本語に見つけた瞬間
ところで、運命から逃れられるのか?という命題は、昔から西洋にある大きなテーマのひとつです。
ギリシア・ローマの神話ですとか、古典のオペラなんかでもこれは物語の主題に良く使われます。
はたして運命が決まっているのかいないのか、そういった物語です。
ちなみに運命が決まっていることをあらわす言葉は日本語で二つあります。
もっとあるかもしれませんが代表的なのが二つ。
それが、因果と因縁です。
ギリシア・ローマの神話ですとか、古典のオペラなんかでもこれは物語の主題に良く使われます。
はたして運命が決まっているのかいないのか、そういった物語です。
ちなみに運命が決まっていることをあらわす言葉は日本語で二つあります。
もっとあるかもしれませんが代表的なのが二つ。
それが、因果と因縁です。